はじめまして、移住一郎と申します。
ここでは簡単に、このブログ運営者(移住一郎)の人となりを紹介させていただきます。
まずは、ザックリと前半(50年)の歩みから。。。
東京に生まれ、4歳の時、父の希望転勤により、福岡に移住。
高校を出るまで北九州市で過ごしました。
(韓国約6年→ロシア約4年→アメリカ約1年→中国約1年→マレーシア約2年(息子のための教育移住で2014年~))で学びました。
その間、日本で会社を3社設立し経営しながら、好き勝手に『経験からしか学べない人間』を体術するかのように生きてきました。
韓国留学当時(1990年)たまたま下宿先のおばさんの親戚が東京に留学しているとのことで一時帰国した際、日本で会うことにしました。
年齢は私の5つ上でしたが、会うやいなやすぐに意気投合します。
2週間の日本滞在中、毎日、先輩のおごりで歌舞伎町の韓国クラブで飲んでいたのですが、そこで働く女性たちが皆一様に日本のハイヒールが足に合わないと言います。
(日本女性と韓国女性はサイズ(長さ)は同じでも足底の幅が違い、韓国女性の方が細い)
数日の間に何度も聞いたため、その悩みを解決すべく、すぐさま翌朝、韓国に行き(その当時も南大門(ナンデムン)は大きな市場(シジャン)で何でもありましたが、ファッション性やデザイン性を考えたら、少々高かったものの、明洞(ミョンドン)で購入することに)
南大門では大きな黒いナイロンのカバンだけ買い、そこに明洞で買ったハイヒールを40足ほど入れ、夜の便で戻ってきて店に持って行ったところ、欲しいということですべて言い値で売れてしまいました。
当時のレートで1足1,500円くらいで買ったものが2万円くらいで売れていたため、これはいい商売になるとアルバイトを雇い、歌舞伎町や赤坂の韓国クラブの入口前にゴザを敷き、同伴で出社する女性たちが男性にねだるとこれまた宴を楽しむ前なだけに言い値状態。。。(笑)
ビジネスなんか考えていなかった時に、いとも簡単に大金を手にしたため、勉学もビジネスも向かうところ敵なしの勢いで思った通りに人生が進んでいきました。
そんなこんなでその時その時、留学したい国が出てくる度、すぐさま行動に移し、自分が満足するまで定住しながら、語学、文化、風習を思う存分学び、楽しみ、満喫し、すべての留学を終えて帰国したのが1996年。
その当時、携帯電話が世に出始めて間もない頃。
そもそも周りに携帯電話を持っている人がいない時だったため、なぜ携帯電話を持つべきかを説明しながら売っていたことを今でも思い出します(笑)
ショッピングモール内にショップを出店したのが功を奏し、バカ売れ状態。
多い日には60台ほど売れていました。
今でこそ0円で販売できなくなりましたが、その当時はタダで配っても1台あたり、利益率の高い機種は4万円くらいのインセンティブが入る状況。
当店は2次代理店だったため、全メーカーを取り扱うことができたこともあり、機種代を設定すればそれはそれで丸々利益となります。
しかし、留学していた頃のように日々新鮮な感覚や興奮が薄れ、その頃メンバー(社員:仲間)以外の新たな出会いがなかったこともあり、新たな人との繋がりを求め、1998年秋頃だったと思いますが、
まぐまぐ!というプラットフォームでメルマガを書くという情報発信をしました。
その頃はまだメルマガなんか書こうと考える人も少なかったこともあり、発行して1ヶ月も経たないうちに4,000名くらいの方たちが読者登録してくれていたと記憶しています。
目標の1つに『日韓の架け橋的存在となる』があり、ビジネスをするなら韓国と絡むことを常に念頭に置いて過ごしていました。
その当時(2007年)社長仲間とお酒を飲んでいた時、あるシステム会社の社長が、頻繁に、圧倒的にエンジニアが足りない、特にJAVAエンジニアに限っては殆どいない状況だと言います。
その場で韓国にいる韓国人エンジニアの親友に電話をし尋ねてみると、韓国ではすでにJAVAエンジニアは溢れかえっていて、日本で働きたい技術者も多くいると言います。
しかもすぐに海外で働けるように英語や日本語の教育をしているエンジニアに特化した教育機関がいくつかあるということ。
そこで目の前にいる社長に、韓国人エンジニアでも大丈夫かと聞くと、日本語さえ理解してくれれば問題ないとのことだったため、翌日からすぐ行動し、3年後には80名近い韓国人だけのエンジニア集団企業になっていました。
2社目を経営しながらも、人との繋がりを感じていたく、また、個人的に文章を書くのが好きだったということもあり、2006年頃からたまにmixi(ミクシィ)やAmebaブログ
で日記を書いていました。
私は自他共に認める酒豪で、今でこそ弱くなってしまいましたが(悲)、お酒大好き人間😃
接待と称した会食を週3ペースで明け方まで繰り広げていたせいで体が悲鳴をあげてしまいます。
特にこれといった病気ではなかったものの、よく寝ても1日中気だるい状態が続きました。
そのため、出社をしない(電話とメールだけで指示する)テレワークの日々を1~2ヶ月過ごします。
それでなくても、その頃の私はすでに、物を購入する割合がオフライン(実店舗)とオンライン(ネットショップ)で半々くらい。
また、2004年頃にはガラケーに特化したアフィリエイトで一般的なサラリーマンの年収以上を稼いでいたこともあり、ネットビジネスの良さは十分に知っていましたが、これといった商材(商品)が思いつかなかったため、手付かずのままでした。
しかし必然のように、ほぼ引きこもり状態になったことにより、本格的にネット通販ビジネスを始めようと決めます。
これまた読みは大当たりし、一切広告を出すことなく、勝手に凄まじい勢いで売れていく状態に。
独自サイトのほか、アマゾン、楽天、ヤフー、DeNA、バイマなど日本にある主要プラットフォームに出店。
黙っていても、笑いが止まらないほど売れまくる日々。
この通りに作業すれば、誰でも仕事ができるようなマニュアルを作成し、すぐに外注化しました。
仕組みだけ作り、後はその作業が好きな人、得意な人に任せ、半年も経たないうちに私はリタイア状態。
それは、私のモットー
を体現します。
ますます人との関わりがなくなり、ワクワク、ドキドキといった興奮や刺激もなくなりました。
そこで、社会的な繋がりを求め、今度は自分なりの方法でメールアドレスを集め、月に1~2回メルマガを発行しながら、自分の考えや思いを伝え始めます。
そうすると毎回、読者の方から“感動しました”とか“元気が出ました”などの感謝メールをいただくようになり、そのうち、頻繁に“ネットビジネスのやり方を教えて欲しい”といったメッセージをいただくようになります。
そして、塾形式のコミュニティーを運営することになりました。
この時はすでに場所的な自由も得ていたため、会社経営とインフォプレナーをしながら、さらなる興奮や刺激を求め、移住することにします。
ちょうど息子が小学校を卒業する時期と重なったため、いろいろ検討した結果、マレーシアに移住しました。
マレーシアは、マレー系やインド系、中華系など多民族国家でありながらも共通言語は英語のため、英語を学びながらも多民族の文化や風習に触れることができ、自然と感受性溢れる人間になれると考えました。
私は18歳から海外に出たのですが、息子には私よりも早く、さまざまな人種と触れ合いながら成長してもらいたいと思ったからに他なりません。
私自身、自らの意志で、いろいろな国に住んだことによる出会いや経験、体験はそのどれもがいい思い出しかなく、本当に言葉では表現できない、細胞に刻まれたような感覚だったからです。
その後、紆余曲折あり、今はマイホーム(新築戸建て)を購入し、日本(東京)に滞在しています。
ここで私の考える移住をお伝えしておきます。
本来、今の場所から移り、違う土地に定住することを移住というのでしょうが、今の時代、気が変われば他の場所に移り住むことも当たり前になると考えるため、定住期間の認識も人それぞれになるはずです。
このブログを発信しようと考えたのは、私の前半人生を振り返ってみるとまさに、
だったからです。
日本人の慣例のごとく、結婚し、いい年になればマイホームを購入し、その場所に定住しながら、通勤圏内の会社で働く。
良くも悪くも日本に生まれ育った、生粋の日本人である私も例に漏れず、漠然と30~40代になれば、そうしなければならないといった感覚が根付いていました。
そして何の疑いもなく、当たり前のように定着(安住)し、早8年。。。
しかし、何かが違う?明らかに可怪しい??
この違和感は一体何なのだろう。。。
停滞感、車の渋滞に巻き込まれたかのように運気の流れも滞り、八方塞がりな感覚。
かといって、特に生活が苦しいわけではなく、愛する妻、息子と望んだ幸せを満喫しているにも関わらず・・・。
自分らしい生き方をしていないことに気付いたのです。
そうだと分かったからには、もう、じっとしてはいられません😁
移住は、私の生き方そのものだから、お手のもの!
とはいえ、移住するとなると、やることはかなりあります。
ということで、このブログでは、これまで過去の移住経験や知識、ノウハウはもちろんのこと、考え方や心構え、そして、これから実際に移住するまでと移住してからも実況中継のようにお伝えしていければと考えています。
これまでの人生、アウトプットしていた時は、自然と自分の望む人たちを引き寄せ、ビジネスも上手くいきました。
しかし、ここ10年近く、全くアウトプット(情報発信)していなかったなと。。。
初めて情報発信してから、すでに25年以上が経った現在、更にアウトプットしまくっていきますので、これからよろしくお願いいたします!